羽生昔がたりで広がる内なる世界

自分の街に語り継がれている昔話を聞いたことはあるでしょうか。もしかすると、子供の頃に聞いたことがあるけれど忘れてしまった方、また引っ越しなどによってもう聞く機会が少なくなった方も多いのではないでしょうか。羽生市では、こうした昔から話され伝えられている話を中心とした本「羽生 昔がたり」が昭和59年から刊行されており、現在までに26巻を刊行しています。この「羽昔がたり」は、市内の教育等でも活用されるだけでなく、テレビ番組「日本昔ばなし」でアニメーション化されたなど、市外、県外の方にも親しまれるものになっています。今回はこの「羽生昔がたり」を田村治子さんと一緒に文字として残し編纂されている郷土史研究家の掘越美恵子さんにお話をお聞きしました。

修正-6-2

「もういいかなと思っても、まだまだ新しい発見が次々出てくる。」

 

ーいつ頃から昔がたりを始められたんでしょうか。ー

「まわり地蔵」に関して言えば、実は私の家にお地蔵様がいらした年に、首がぽろっと取れてしまったことがあって、、、慌ててお寺のご住職に連絡したら、「佛像は首が取れるようにできているのです」って。でも、首が取れたことによってその中から文書が出てきたのです。その文書の中には、お地蔵さまを作るために寄付してくれた方々の名前や、なぜまわり地蔵を作ったのか理由が書かれていたのですよね。そんなこともあって、「ああやっぱりこういうこともご縁なんだな」と。それから、お地蔵様のことを深く調べるようになりました。

村君の永明寺(ようめいじ)古墳群が県の指定になりましたが、この羽生市は平安時代から人が住んでいたようです。しかし、度々洪水にあっているので3メートルくらい掘ったくらいでは遺跡は出てきません。年がら年中水害にあっていた地区ですからね。永明寺古墳は、地質学的にいうと、縄文海進といって太平洋がぐんと入ってきた水際が、宝蔵寺沼(日本唯一のムジナモ自生の地)なのですって。これは、このあいだ勲章を貰った堀口万吉先生(埼玉大学名誉教授。2016年瑞宝中綬章綬章。)がおっしゃっていました。現段階では、加須の浮野(参考:最終氷河期が終わり、再び気候が温顔化し、海水が侵入してきた。)と言われているのですがね。ここの川俣は標高が高いのよ。羽生市内は低いから、水が流れていってしまう。だから、その辺りで亡くなった人も多いのよ。私も大水の後に利根川に行ってみると人間や、いろんなものが流れてるのを目にしました。それはそれはすごい光景でした。今年はカスリーン台風後70年ですから、そんなことを知っているのは80代くらいの人くらいかしらね。

 

IMG_1665

羽生昔がたり

ー羽生にも積み重なった歴史があるのですね。初めて感じました。ー

昔語りには他にも中川やぶんぶくちゃがまの話などが載ってます。談合書、屯所の話なんかも知らないでしょ?もういいかなと思っても、まだまだ新しい発見が次々出てくる。文字化されているものはいいけれども、そうではないものは後世に伝えてくれる人に口で伝えて残していってもらいたいのが私の夢です。歴史が消えてなくならないようにね。

 

ー掘越さんは羽生にずっといらっしゃったのでしょうか。ー

実は、私の生れ育ったところは、一番初めは大阪の梅田駅のあたりでした。幼稚園まではそこで過ごし、小学校は千葉県の市川の方で過ごしました。市川にいたときに、東京大空襲に遭いまして父の研究所が全部焼けました。そして疎開先である熊谷に越したのですが、そこでも熊谷空襲に遭いまして、それで、父の生まれた家に戻ってきました。父はペニシリンの研究をしていました。ペニシリンが出来上がったんですが、日本ではなかなか認可されずにそれを持ってアメリカに行くといった矢先に亡くなってしまいました。

 

ー大変なお話ですね。お父様は羽生市出身だったのですね。ー

そうです。羽生市出身の堀越寛介※1は私の祖父です。そう、なんといってもこの寛介という人は、生まれてから死ぬまでずっと羽生市内にいたのです。こちらが掘越寛介がなくなった際に作られた本です。これ※2をみなさんに見て頂くためにご用意しました。

※1明治-大正時代の政治家,経営者。安政6年7月25日生まれ。第1回衆議院議員。(当選4回)。東京専門学校(現早大)卒。武蔵(むさし)埼玉郡本川俣村の戸長となって明治9年に通見社を組織し自由民権運動にくわわった。大日本生命保険社長などをつとめた。

※2「堀越寛介君哀悼録」

 

ー貴重な本を申し訳ないです。ありがとうございます。ー

これは掘越家に伝わっている話で証明することができないのですが、自由民権運動はみんな士族中心に展開していった。会合があって大阪方面に出張しにいっても、「士族以外はいれない」と寛介らを板垣退助らが会場の中に入れてくれなかったそうです。自由ということばを国会で始めて発言したのは寛介が初めてなんですよ。そうすると今の歴史が随分と変わってきますよね。第一回の国会の議事録を調べに行ったところ、第一回の議事録は残念ながらありませんでした。

 

ー歴史的な瞬間でしたね。掘越寛介という人どのような方だったのでしょうか。ー

掘越寛介という人は、羽生の為に尽力した人だと思っています。全国に拡がった自由民権運動の時分には「羽生に通見社あり。」とも言われていたそうです。特に羽生市では、鉄道がなければ文化がダメだと思えば自分の土地を無償で提供して鉄道を敷き、学問がなければダメだと思えば不動岡高校を作ったようです。不動岡高校の二代目校長は掘越寛介ですよ。また屋代義男(明治20年に私立羽生病院を設立した人物。)さんという軍医を呼んできて市民のために尽力しました。

 

修正-6のコピー

堀越寛介肖像写真:「堀越寛介君哀悼録」より

「昔の羽生の人達は活き活きと、助け合いながら生きていたんです。」

 

ーこうした経緯からも歴史を研究されていたのですね。掘越さんから見た今の羽生はどのように見えますか。ー

もう少し文化についての関心をもってもいいような気がします。文化というのは積み重ねですからね。だけど、なんでもですが一変、衰退したものはなかなかもとの様になるのは難しいものですよ。お金がない、というのがいい口実になってね。そう言えばある方に「土の中から出てくるのが文化」と言われました、笑。地上にあるのは文化じゃないんですって。それを言われてからなにも言う気がなくなりました。本当の文化というものはその土地に芽生え、発展してきたからこそ文化に成り得るのです。

 

ーこうして掘越さんのお話を聞くと今も生きている文化に興味が湧いてきますね。ー

この本川俣という地名だってそうです。川が分かれるところにあるから川俣(川又)という地名になった。その大元が千手院で、1200年前に日光を開山した「勝道上人」が上野国の国司となったときにお堂を建てて、ここまでは、上野国のものとしたそうです。今のりそな銀行さんの前のところにもあります。稲子という地名は農作物が沢山取れて、イナゴが沢山いたからそういう地名になりました。地名から歴史を調べるようになりました。歴史といっても、私は小学校5年生のときが終戦ですから、教育に関してはしっちゃかめっちゃかな時期で、歴史は墨塗りという時代に育ちましたから・・・。でも、地名を調べてみると、その地名に関するお話が必ずあるので、歴史というよりはどちらかというと、松谷みよ子先生のファンというのもあってお話の方に夢中になってしまいました。

 

ー歴史をお話しされてると活き活きされていますね。ー

話を一つにまとめるなら昔の羽生の人達は活き活きと、助け合いながら生きていたのです。屋代義男さんのように、お金がない人からは無償で治療していたりね。今の市民プラザは昔、問屋場になっていました。しかし鉄道が敷かれるようになると、問屋場も必要ない。その問屋場の後に建てられてのが私立羽生病院です。これも蕨市と羽生市が一番初めでした。調べてみると、羽生にもそんな素晴らしい人たちがたくさんいました。とにかく早い時期にさまざまなものができたのが羽生市なのですよ。明治5年に蕨市と羽生市に今でいう小学校が一番最初にできたんですよ。病院それから学校、養鯉をしていた松本伴七郎さんもすごい方です。今は、長野市が有名になってしまいましたが、もとは利根川の水をせき止めて養鯉していた技術を長野へ教えに行ったようです。皇居のお堀に泳いでいる鯉の大元は羽生から行ったものです。

修正-1-2

「これからは、我が町を愛する人たちを増やしていかないとね。」

 

ー羽生の文化を調べ伝えることが掘越さんの使命だったんですね。ー

ちょうど昨日80代の人たちが、8人集まって「明日若い人たち(HANE)が来て,羽生の街を活き活きとさせるためにはどうしたらいいか?聞きに見えることになっているけど、どういうことをいってあげたらいいか?」とみんなに聞いたところ、口をそろえて「それは、無理だ」と一斉にいいました、笑「でも、もしなにかすることがあったとしたら?」と聞くと「まず第一に学問を整えることが大切」という答えが返ってきました。だからこそ、あなたたちのように若い人たちがこうした活動をすることが大切なの。あなたたちみたいな活動をしている人たちがいるからまだまだ羽生も大丈夫だと思います。街の人があなた方の背中を押してくれればいいなと思っています。

 

ー応援して頂きありがとうございます。ー

とにかく、これからは、我が町を愛する人たちを増やしていきましょう。だって、どこ出身ですかなんて聞かれて、胸を張って「羽生市なんです。」って言えないじゃない。どうせするなら徹底的にいろいろなことをやったらいいじゃない。だれが見てなくても、そういう努力をしていれば天知る地知る人ぞ知るです。だから勇気をもって頑張ってください。

修正-6-3

堀越さんご自宅の大きな木

終わりに

文章だけでなく、掘越さんの声から聞くお話もとても魅力的で、羽生市の驚きや発見がいくつもあり、羽生市への興味が広がっていきました。今回は特に「昔がたり」の経緯だけでなく掘越寛介のお話など、今の街の地理や日本に関する歴史についても知ることができ、とても勉強になりました。今では映画など世界中の物語が楽しめますが、実際に歩いてみたり勉強してみたり、なにより暮らしている身近な街の物語も素敵です。私たちも少しずつではありますが、これからも楽しみたいと思います。

Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です